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薩軍こぼれ話
 明治10年8月17日午後8時頃、俵野の児玉熊四郎宅では、鶏(2、3羽)と酒数升で、西郷と幹部の最後の酒宴が開かれた。酒宴では詩を吟じたり、歌を歌ったりしたと伝えられている。ちなみに西郷さんは下戸であった。

 西南戦争で西郷を見た住民は非常に少ない。陣頭指揮をとらないことも原因だが、それにしても少なすぎる。敗走中に西郷の竹駕籠を担いだ住民や、世話をした住民が沢山いた筈なのに西郷を見た住民は少ない。最後の軍議を開いた俵野長井村では「西郷さんはどんひとやろかい」と言っていたそうで、西郷さんを見た人は一人もいなかった。
 西郷は生残し中国に渡ったとか、西郷は開戦当初戦死し桐野ら軍幹部が影武者を立て偽装工作をしたとか、写真嫌いの西郷だから人前に出るのが嫌いだったとか、謎の多い西郷である。
 
 西郷は風土病で異常に睾丸が大きくなり歩行困難だったので竹駕籠に乗り敗走した。大男を乗せた竹駕籠を担がされた、地元の人はさぞ辛かったろう。ただ、担いで登るのが困難な道では竹駕籠を降り歩いた。
 ※睾丸説意外に脱腸で歩行困難だったの説がある。真意は分からない。

 西郷は戦場で直接指揮をとることはなく、作戦会議でもほとんど意見を言わず戦場に顔も見せなかったと言われている。「薩摩西郷は仏か神か姿見せずに戦さする」と言われた。西郷が最初で最後の指揮をとったのは和田越決戦(延岡市)であった。

 可愛嶽突破に成功した薩軍は、可愛嶽北面で休憩した。極度の緊張と空腹で疲労の極地にあった、薩軍兵士を前に西郷は竹駕籠からおり、巨石の間に四つんばいになり「よべ(夜這い)ごとある」と言った。これを聞いた兵隊達は大笑いし元気になったとの言い伝えがある。西郷はユーモアのセンスがあったと言われている。

 川上、牧少年の二人が西郷一行に道を譲った。その時の西郷の様子は、優しげま笑みをたたえ、周囲の敵には目もくれず、泰平の山中猟をしているように見えたと回想している。少年は「現世にまたとなるべき大豪傑大英雄」と初めて見た西郷を評したのである。

 9月24日、朝7時、城山の洞窟に5日間立てこもった洞窟をでて、300m歩いたの地点で、2発の銃弾を受け倒れ「晋どんもうここらでよか」と皇居の方角を伏し拝む彼に別府晋介の太刀が振り下ろされた。西郷の首は別府晋介に「どこかへ隠せ。敵に渡すな」と言われた、吉左右衛門が折田正助邸の門前に埋めたと言われている。西郷が自刃してから、おおよそ30分後には、全ての薩軍将士が死に西南戦争は終わった。

 西郷が自刃する4ヶ月前の5月26日 木戸孝允は京都で病死し、翌明治11年5月14日 大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われて死亡した。木戸45歳、西郷51歳、大久保49歳であった。「維新の三傑」と呼ばれた木戸、西郷、大久保の時代が終わったのである。

以下美郷町南郷商工会HPより抜粋

 神門の戦いの最中薩軍は田代の薩軍に連絡のため、田野原から水清谷へと進んだ。此の時斉藤伝氏、後藤佐守氏の祖母に当る故オクマ氏が神門で戦いが始まり、銃の音が聞こえるとの話を聞き、小さい子供が3人いるので気転をきかし古い炭焼き窯に避難する途中、連絡兵に出会った。
 その姿は乱れ髪に鉢巻顔髭は伸び放題(当時、薩軍は賊軍の汚名を着せられ地区民から怖がられていた)これを見たオクマ氏の驚きよう、又子供3人も泣き出す程だった。オクマ氏が引き返そうとしたら薩軍に声をかけられ、「頼みがある、自分達は連絡のため田代にいくんだが、今朝から飯を食べていない。申し訳ないが飯を食わせてくれないか」と、鹿児島弁で言葉ははっきりしないが、丁寧で優しかったので、オクマ氏は安心して自宅に連れ帰り飯と味噌汁を与え、更に握り飯を持たせた。この3人は姿に似ず涙を流して喜び、厚くお礼を言って立ち去った。夕方、主人和七氏が帰宅し、今日の出来事を話したら「さすがは薩摩隼人」その態度に感心し同情したとの話しである。

 脚説、金丸氏宅に入った隆盛は、床の間の柱によりかかりじっと腕を組み合わせ物思いに考え込んでいたが、当家の娘オクスの優しい姿ににっこり笑みを浮かべたそうである。然し娘は巨大な手指の甲に真っ黒い髭を見て危うく湯飲みが転げそうになったが、気を取り直して丁寧にお茶を差し上げた。一方包帯所(萬鷲寺)の看護手当に前田光藏と前田ムラ兄妹がその任にあたった。切り傷の布切れを取ると蛆虫がわいており、顔を背ける程であったが気性の強い兄妹は、その蛆虫を取り除き焼酎で消毒して包帯を替えたそうである。

 尾迎に到着し疲れ切った薩軍に若杉戸長は予想もしない農家の牛を買い、栄養補給だと言ってそれを殺して薩軍に牛の肉を食わせたそうである。

  8月24日午後7時頃、全員夕食をすませ、仮眠のため宿泊したが武器の手入れ、衣類の修理等で時間を費やし、その間陣営の見張り、特に民弥宅の警戒厳重、仮眠も交代で充分熟睡出来なかったと思うが、石坂軍医を捕まえて隆盛と面会を機会に全員夜食を取らせ、既に準備してあった米一升、梅干し、朝漬けを各人に持たせ尾迎を出発したのが「ウシミツ」頃であったとの事だから現在の午前2時であろうと想像する。

 この時、西郷隆盛は鬼神野戸長若杉信任に形身として小刀を渡し、別れのあいさつ、生い立ちから今日までの生活、今又生死の境遇にある2人の惜別、その情にうたれ見送る村人、共に出発する薩軍兵士等2人の心を察しもらい泣き、涙を流したとのことである。(形身の刀は筆者岩原勗氏の祖父母に預けたが、後日大正12年詐欺に遭い今は無し)又、萬鷲寺療養中の負傷兵は敗退したとの話しを聞き親にすがる赤子のように泣き悲しむ者、残念がってわめく者、実に哀れであったという。

 出発の際は鬼神野の若者2人が隆盛を駕籠に乗せて、東の空が明るくなった頃、茶屋峠についた。そこからは当時神門から銀鏡の間を荷物運びしていた渡川平城平田久助氏友一人がきており、渡川から米良までの道案内と駕籠をかついで行ったが、若者も平田氏も西郷の姿は見る事は出来なかったそうである。

 明けくれば8月25日、陣容を整えた政府軍は軍旗を先頭に堂々と薩軍掃討のため神門より進撃して来た。
 この時の政府軍の状況を大山シカ氏(大山進氏母)は次のように語っておられた。
「あの時の鎮台さん(政府軍)の姿にはほれぼれした。まるで人形を切り揃えたように赤い筋のある帽子に黒ズボン、金色のボタンの着いた軍服、白いケハンに銃をかついでいた。それに引き替え西郷どんの家来は服装はまちまちでそろっておらず、顔はヒゲだらけで、あれでは賦軍(山に住む人の意)と言われても仕方あるまい」と言われていたそうである。

 南郷商工会のHPを見ると薩軍の悲惨さがよく分かる、空腹と戦いながら官軍の追撃をかわし必死に逃げたのである。そのような状況下、西郷の冷静で優しい態度には驚かされる。