TOP  薩軍の敗因・西郷どん

薩軍の敗因

 圧倒的な兵力の差があったこと。
 兵員、物資の輸送、援護艦砲など、海軍の存在が大きかったこと。
 (薩軍兵力30,000人、官軍61,000、薩軍大砲60門、官軍大砲190門、薩軍軍艦0隻、官軍軍艦13隻)
 武器能力、情報伝達、通信技術、全てにおいて官軍が優れていたこと。
 (西南戦争開戦時、東京、熊本間には電信が設置され、いち早く薩軍の情報が把握できた。)
 官軍は「土百姓の人形兵、、只一蹴して過ぎるのみで方策を要せず」と薩軍が侮り、力攻めのみの作戦であったこと。
 
西郷どん
 西郷どんは「敬天愛人(けいてんあいじん)」の言葉をよく使った。歴史上にこれだけの人心を惹きつける偉人は、坂本龍馬と西郷隆盛しかいない。西郷どんは磊落で優しいく思いやりのある人間であるからこそ、人々の心を惹きつけるのだろう。

 西南戦争に西郷どんを走らせた真の理由は何だったのだろうか、常に民衆の目で政治を見てきた西郷どんに何らかの不満があったのかもしれない。西郷どんの目指す政治は「外に道議を持って立ち、内に道議が行われる」の道議政治であった。急速な改革を進める明治政府に対する反発があったのかもしれない。経済的に苦しむ士族や一般民衆に目が向けられていたことは間違いない。だからこそ西南戦争を始めたのだろう。

 西郷どんは、勝つ見込みのない西南戦争を起こし薩軍を全滅させた。そこに西郷どんのメッセージがあるのではないか。詳しいことは分からないが西郷どんが、明治10年に熊本鎮台司令長官に送った文面には「拙者儀、今般政府へ尋問の廉有・・・」と書いてある。西郷どんの真意は何か分からないが、政府に対して尋問したことがあったことは間違いない。

 西郷どんは無用な戦争の愚かさを身を以て伝えたかったのではないか。しかしながらその意志は伝わらず、日本は軍国の道を歩んだ結果、西南戦争終結68年後、日本は勝つ見込みのない太平洋戦争に突入し、3百万人もの国民や兵隊が死んだ。薩軍と官軍が戦った西南戦争を繰り返したと考えるのは、飛躍しすぎだろうか。

 西郷どんは大の写真嫌いで、現存する肖像画について本物かどうか疑われている。体型も大男、小男、痩形などの諸説があり不明だが、ドングリ眼、180cmの巨漢の西郷どんをみんな愛しているのだから、これ以上詮索するのはやめたい。