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可愛嶽突破

 薩軍は可愛岳麓の俵野長井村に追い込まれ、周囲は完全に官軍に包囲された。その時、薩軍1,000、官軍50,000の兵力であった。児玉熊四郎宅に逃げ込んだ西郷は、最後の軍議に望んでいた。その前日、西郷は薩軍の解散令を布令しており、沢山の書類とともに軍服も焼いてる。そのとき硯だけは焼け残り資料館に展示してある。
      解散令
      「我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、
      降らんと るものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。」


 8月17日、最後の軍議が開かれた。脱出路を全て塞がれ、降伏するか、戦って死ぬかの二者択一しかない重苦しい中での軍議であった。戦って死ぬとの意見の多い中、西郷は重い口を開き「全軍進んでまず三田井に出、然るに後その方向を決するも晩の内」と決意を表明した。午後10時に可愛嶽突囲戦の隊編成が発表された。

  前軍指令 河野圭一郎 辺見十郎太
  中軍指令 桐野利秋 村田新八
  後軍指令 中島健彦 貴島清   

 総勢600人は可愛嶽頂上を目指した。18日、午前4時半、英式ラッパ一声、総攻撃が開始された。ふいをつかれた官軍は総崩れとなり、第一旅団野津少将は日の谷へ、第2旅団三好少将は前衛隊へ逃れ、薩軍は可愛嶽突破に成功したのである。

 ここに歴史上まれにみる、薩軍の敗走物語がはじまったのである。全行程400km、宮崎県の山岳地帯を武器や食料を背負い、官軍と戦いながら、日に30〜40kmのスピードで14日間も歩き通し9月1日に鹿児島に着いたのである。

       
                        延岡市内から見る可愛嶽