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遠因

 明治政府樹立初期、社会情勢が不安定な時代。西郷隆盛は、征韓論で大久保利通岩倉具視に敗れ陸軍大将を辞職し鹿児島に帰郷する。陸軍少将、桐野利秋篠原国幹など政府の中枢にいた薩摩出身の官僚、軍人600名も辞職し西郷に従った。

近因
 明治7年の「佐賀の乱」など士族の反乱が続出する時代。鹿児島の処遇について長州出身の木戸孝允は、薩摩藩出身の大久保の責任を厳しく追及する。大久保は薩摩藩出身の大警視、川路利良らと善後策を図る。川路は12月に鹿児島出身者の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、私学校関係者の工作を指示する。

 政府はこれと同時に、鹿児島の陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。これを政府の挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、桐野や篠原ら私学校幹部に無断で火薬庫を襲撃する。密偵の大量逮捕によって、西郷暗殺の計画が流布され、私学校側、激昂する。
 
 西郷は私学校生徒に対して「なんごておとったっか(なんで盗んだのか)」と幹部を前に激怒したと言う。しかし私学校幹部の決起の意志が強いのを知ると、ついに西郷も「おはんどんにおいの体をあげもんす」と決起を決意し西南戦争が起こったのである。

私学校
 西郷は帰京後は、田畑を耕したり、魚釣りをしたり、俗世界と離れた生活をしていた。西郷は明治7年(1864)西郷の後を追うように帰郷した青年の教育機関として、旧薩摩藩居城、鶴丸城跡厩に砲隊、銃隊、賞典学校からなる、私学校を設立した。教務は主に漢文の素読と軍事教練にあった。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされるが、私学校とは名ばかりで県の費用で運営された。